読みものは、日常の中で必要な見解を教えてくれるヒントが盛りだくさんにある。
いままで読んできた本や見聞きした言葉も、その時々で必要だった体験や考え方という見解の中で、少なからず自分はこういう考え方のある人間だということや自分自身のありたいように近づいていくための本を好んでいくような気がする。
いつも「あ、こういう本を探していたんだ!」と思っても、すぐに心変わりしてしまうものだし、いまも変わったりするものだけれど、少しずつ手元に置いておきたい本はこういうものだなあ、と探すことができてくようになってる気もするし、
選びたい本も何となくわかってくれば、探していくジャンル的なものも、少しは把握しやすくなっていくような気もする。
いまは暇をあえて作る際に、リルケの「芸術と人生」をどこにでも持ち運んでいたくなるほど部屋の中でも肌身離さず、身体の片隅に置いているように夢中で読んでいるのだけれども、今日は表紙が汚れていることに気がついた。
見た瞬間、少し悲しさが込み上げた。けれど、汚れてもすぐに、「これはきっと手元に置いておく本だろう」と思い、にんまりと嬉しさが込み上げてきた。
……こういうのは、初めての感覚だった。
こういうことかもしれない。色褪せても、多少の汚れたものも、愛おしくなるということは──なんて、思ったりした。
まあ、表紙カバーをめくってもお洒落に変わりないところがまた、私の満足感を掻き立ててくれているから、問題はない。
表紙から内容までここまで気に入る美しい本は、めったにないとおもう。
それで、「いつも読みたくなってしまうものって、一体どんなものだっけ?」と考えてみたくなったのだけれど、最近わかることといえば、この物事についてよく理解していても、いなかったとしても、正誤関係なく、自らの言葉にして会得しているかのように、凛としているかのように、言語化されているもの。そんな気がする。
その人の暮らし方や詳細を知りたいというよりも、その人の生き方、人生の向き合い方が現れているような言葉で、緊張感や高揚感、穏やかさが感じられる、そんなもの。
そんなどこか確固としていて、しなやかな文章を読んでいたりすると、人の目を気にしてどう思われるかを気にする時には、雑音は気にしないようにして、自分自身の考えを貫くことも必要なんだよなあ、と思わせてくれる。
結局、自分自身の思うことだったりするから。それにどう向き合ってくか、を考えることが、最重要なのかもしれないなあ、と。
最近はリルケの本を読みふけっていると、まだまだ未知なことが多いような気がしてくる。
“あなたの心の中の未解決のものすべてに対して、忍耐強くなってください。たとえば錠のおりた部屋のように、あるいは外国語で書かれた書物のように、問いそのものを愛するように努めるのです。”
“必要なのは、孤独、大きな内的な孤独というものだけなのです。”
“「旅」にはたった一つしかない。自分自身の中へ行くこと。”
こういうリルケの言葉たちによって、心動かされている最中。