暮らしを愉しむ

日々、考えること、好きなこと、暮らしをつぶやく散文記録。読書、観賞、暮らし方など。

暮らしの中で自己整理するいくつかの瞬間



 

子育てをし始めてから些細なことで怒らなくなったように感じる。子育てしていると、自分自身の平穏を保ったり、維持するために努力する機会が増えた。

 

というのも、いままでが些細なことに過敏に反応しすぎて、勝手に疲れていたような気もする。子育てで、気にしないといけないことも多いけれど、結局安全の範囲内であれば、見守りながらひと声かけることが、1番いい気がする。子供たちにも考える機会、時間をもって、その上で再度話し合ってみるほうが、納得がいくような気がするからだ。

 

こうして話してみると、歳を重ねるごとに少しずつあることに対して、耐性がついてくような感覚になる。

それでも、なにか行動をしているときに大きく感じられる。その都度感じること、思うことももちがう。その感情は乳化させて、綺麗に洗い流せるような気持ちにしなければならないのだとおもう。

 

だから、どうも日々思っていることを凝縮することはできない。その出来事たちを振り返ってぼんやりと糧にして前を向いて生きることはできるけれど。

 

そういう違いを整理するために書いている

結局どれも思った本音を混ぜて、その時々変容させていくこと……

 

なので、いま書いていることすべても、過去は過ぎ去ってしまったことだから、いまを大切に選択していこうという目標じゃないかなと思う。少しづつ見直して、見渡していけるように……と。

 

 

カフカ フランツがこんな言葉を残している。

 

あるのは目標だけだ。道はない。われわれが道と呼んでいるのは、ためらいに他ならない。

There is a destination but no path; what we call path is hesitation.

 

……まったく、その通りだと思う。

いつも考えていることは欲望や願望や希望に他ならなくて、その中でもがきながら進んで行くしかないのだとおもう。

 

そう考えてみれば、生きてること自体を諦めないで、長生きしようとしてる時点で、すごいことに思えてくる。

 

 

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子供たちは初対面なのに、すぐ仲良くなれる技は忘れないでいたい……!けれども、これも考えようであったりもして。

 

なぜ、大人になってから、こんなに躊躇するようになるのか?と思えば、幼い頃は割と躊躇もなければ、気にすることにもしない。

歳を重ねる度に経験するとともに、少しずつ複雑化してくるけれど、経験も重なる分、生きる知恵的なものは授かる気がする。

 

なんでそんなことを言うのか理解できない、考えられないとおもうのは、理解されたいという自意識もあるからこそ苦しくなって、外さなきゃならないものだけれども……

 

言いたいことも、話すべきことも読み取ってくれる方が実際にはるかに気楽ではある。

けれども、結局どう思っていたって、相手には言い方というものは気をつけておいた方がいいな、と思う。

 

何をどう考えるかを考慮した上で、言う言わないことに対して、後はあまり引きづらない方がいい。言ったことには、その人の人格が現れてしまうことはあるだろうから、気にして、意識して、改善する努力はできる。その努力もできることに対して、限定でいいのだとおもう。

 

 

そう思った上で考えることは、やはりある程度の疑問、怒りをみせる姿口調は慎んでおいた方がいいということ。

そのあと言ってしまったことに後悔する回数や後味の悪さに遭遇する場面は少なくなるから。

 

話しやすさもその人との打ち解けやすい相性があるんだろう。けれど、自分の思いよりは相手の気持ちを聞いた上で進んで語ってくれる場合が好きなほうなんだろうなあ……

と、つい、そんなことを思ってしまうもの。

 

変わらず自分の性格は内向的で、防御力高めなのは変わらずだとおもう。

そんなことを自覚する瞬間。