暮らしを愉しむ

日々、考えること、好きなこと、暮らしをつぶやく散文記録。読書、観賞、暮らし方など。

わたし的、書き続けてみるという利点

 

 

 

 

こうして書いてみると、どのように書こうか意識しすぎてまとまりにくくなることもしばしば。

 

書く文章も、口癖みたいなもので、ごく自然に書けば、いいのかも。

書き方は、そのまで人によって個人差はないようで、内容は、まったく変わってくるし、感じかたも違ってくる。

 

それなら、あえて型にハマるように書いてしまうことは、自分自身が消えてしまうような気さえする。

 

 

読んでいて、聞いていて心地よいと感じる場合は、だいたい客観的に聞くことだったりする。ラジオを聴いている感覚に近い。

誰かの話を聞いている程度で、ああ、わたしもわかる!うーん、それはどうだろう?と考えて、良いと思ったものだけ取り入れ、思ったことを良い方に物事の捉え方として、変換していくような感じ。

 

よく読んだり、聞いたりしていても、独り言のように話がすらすらと進んでいくものが読めてしまう。話の流れが、心情の移りゆく流れ、そのままに完結していくもの。

物語の始まりと終わりがあるような、読み応えがあるもの。

それは、きちんと完結されていなくても、本人のなかで、一区切り、まとまりが表れているもの。

決して、断じて結論づけていられるものではなく、一時的にそう結論づけられたもの。

 

わたし自身も、つい、無理矢理に完結付けてしまいたくなるけれど、そういうものは、大体自分で読み返してみても、納得がしないもので。

そういうものだ。無理矢理に完結させようとしないで、そのまま考えながらでた言葉を、つらつらと並べてみながら、整理して。

そういう個人の納得のいく経緯が記されているものに、感銘を受けて、参考にしたくなる。

 

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ある作家は、本を書くのに、何年、何十年との歳月をかけたりする。それを一冊にまとめるとは、どんな精神だろう。きっと、わたしには、できないと思う。少しずつ、記録をして、整理して、後を振り返らず、修正していかなければ、一歩ずつ前進するモチベーションが保てないような気がするから……だと、思う。

人生は長距離走かもしれないし、もうすぐ終えるかもしれない。そう思うと、人生は、あとどれくらい生きるかの距離の長さを測る感覚のように思える。

たとえゴール地点が見えなくても、どのように、どこで、立ち止まり、なにをするのか。その計画はある程度継続しつつ、都度の管理力、モチベーション維持に努めなければならない。その計画も、個人それそれの考え方になる。

 

なので、わたし的に永遠に完結しないような記録として。人生の続く、書物のように記録していくのは、いいのかな、と思い始めてきている。