暮らしを愉しむ

日々、考えること、好きなこと、暮らしをつぶやく散文記録。読書、観賞、暮らし方など。

時間が経つことは、珈琲を味わうようで

 



時間が経てば、すべてがいい思い出になる。──
ということはよく聞くけれど、最近、そのことな、わたしにとっても感慨深くなったりすることだったりする。

人生には、忘れてしまってもいいこともある。けれども、いつまでも心に残ることならば、どうにかしなければならないのか。

そう考えてみると、たとえ、忘れることはできなくても、心にいつまでもあったとしても、あらゆることを考えながら。なるべく苦にならないようごまかしながら。乗り越えていけば、いいんじゃないか、と思えてくる。

あらゆることを楽しめるように、いつも努めることは簡単ではない。けれど、考え方次第で気分を軽くすることは、生き方をも左右するとても重要なことのように思える。

生活の楽しみになることは、常に考えながら見つけていくしかないようなことのような気がする。

「好きは、ものの上手なれ」というように、好きなことでもないけれど、気づけば、続けてしまうこと──が、とても実用的なことのように思える。
そして、自分自身が追求するべきものを見つけたとき、それを追求することが自分自身を成長させ、自分自身の可能性を広げることに繋がるということを、身をもって感じられる瞬間もある。

こうして考えてみれば、幸運とは、自分でみつけるものでもあるみたい。

 

 

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記録をすることは、私にとって、つづいているひとつの習慣でもある。
かといって、あくまで、こうして記録するためが、人生ではないのだと思っている。

 

記録していくためには、日々何か行動をし、何かを考える時間が題材になる。

 

“生きてる限りは、できごとを学びにする”が前提として、誰かに話してみたり、聞いてみたりすることができる。
それは、また世間話から、個人なりに思う、個人の物事の捉え方にして記録しているような気がするし、書いてみるだけで、不思議と心が晴れ、物ごとの整理法になったりする。


そういえば、先日、買い物していたときのことを思い出す。

 

いつもコープ宅配の週一の買い物か、近所の有人レジしか基本使うことがないけれども、
その日は久しぶりに、違うマートでセルフレジを使用し、買い物をしていた。

 

そのとき、店員の方がすぐにやってきて、
うまく商品が読み取れてなかった、とのこと。

 

うまく商品が読み取れて反応したように思えたので、そのまま買い物を続けていたといったけれども、その対応がとても冷たく感じた。
なんというか、例えるならば、風のように自分目線で伝えたいことを簡潔に言い去っていく感じ…

 

その後、しばらくそのことについてモヤモヤし、考えてみたくなった。

こういうとき、少しでも心の中に後味の悪さが残ることは、個人の中で解消しなければ、いつまで経っても前進できないような気持ちになる。

 

それで、改めて、考えてみれば、

はじめて会った人に、急に言いたいことだけ言われて立ち去られる気分は、なんとも理解し難くて、まさに後味が悪い気分に感じたのだと、思った。


 そう思いながら、家路につき、いつもみているYouTuberの著名人が、こう語っていた。

人間は、温かみとユーモアが大切だ──と。
話すと長くなるけれど、簡単にいえば、信頼や生きていく上での際重要視する部分。
そういうニュアンスに感じとれた。

 

わたしは、それを聴きながら、家事をこなしながら、ふたたび考えていた。
すると、やっとじわじわ個人なりの考え方に行き着き、納得することができた。

 

そうだ、人に優しく寄り添って、温かく接することは人間関係を円滑に過ごしていくための基盤を作ることではないだろうか、と。

もちろん、誰かを理解することも簡単ではない。個性は存在するし、捉え方、価値観も性質も違う。
けれでも、理解するように接したり、対策したり、改善することはできる。そうして、認め合って生きていく姿勢で、人同士が交わって生きていく世の中であってほしい。
もちろん、それが簡単にいかないことは、把握しつつ、
自分自身もきっと、理不尽でもあるだろうな…と思いながら。
そんなふうに、思ってしまうものです。


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いつものように料理をしているときに、こう思ったのを思い出す。

レシピ通りにそって、作ることは好きではない。
個人に持ち合わせているもので、個人の家にある役立つもので。必要に応じて作っていけるものでうまく活用できたら、それが、はじめて個人にとっての実用性になる気がする。

 

そんなふうに、日ごろ思う、パズルのピースが合わさっていくような個人の生き方の筋みたいなものが、少しづ掴めてくる気がする。

 

それは、どこからも吸収できるわけではなくて、
必要なときに、必要なものを選んでいくからこそ、個人の豊かさにつながるものでもあったりする。

 

だれもがそれを必要としているわけではないけれど、自分にとっては、それが暮しやすくするための、時間──
時間の取り方は、人によってそれそれ割り当てが違うもので。

 

事情との兼ね合いで、やむ追えず時間がなく、家が散らかることもある。

片付けができないならやめてしまえばいいことも、確かにあるけれど、そういうことばかりではない。その日は、コンデイションのため、掃除できないこともある。翌日、リセットして余裕を作れば、できる。
そう、必ずしも、その日だけにしなければならないことは、ごく稀な事情になるか、最低限しておくべき、後片付けくらい。

 

実は、こまめにしていることよりも、目先の心配が大きくなることもある。いつも状態がいいわけではない。
何かをすれば、何かをする時間は減る。そういう自覚をもって、バランスをとって。調整していけたら、それでよし。一日が、何事もないように終えることができたのなら。

 


知ることも知らないことも、感じ方もそれそれになってくるもので、
だからこそ、把握はしきれないことで。
むしろ、知ったところで、個人としては、使い道にならなくて、実用性もなく、知らなくていいこともある。

 

その生きる道筋みたいなものは、ふと思う何気ない日常の動作から生まれ、何気ない心揺さぶられた瞬間、出来事、の感情の動きを感じ取りながら。なんで?を考え、個人で納得していくためのことのようにも、思える。

わたしは、こんなふうに人生を捉えているかもしれないけれど、だれの人生にとっても、なにが、どう、生きるそのものなのかなど、一目でわかり得ることもできない。
こうして、少しでも語ること以外には。──

とても、理解するにはむずかしいけれど、理解してみることはできる。

 

 

それを話すことは、とても簡単でもないし、理解されることだとも思わない。
そのために、たまたま話してみることで、なにか意気投合するものが、心のなかで不思議と芽生えるということは、幸運にも、思える。

それが、人生だと思う。うん、そうだ。
そう思って、たまには正当かしてみることも、生きる上で、揉まれながらも生活のバランスを保つためには、必要なことなのかもしれません。

 

長くなりました。
けれども、こうやって整理する時間は、とにかくいいものです。