暮らしを愉しむ

日々、考えること、好きなこと、暮らしをつぶやく散文記録。読書、観賞、暮らし方など。

心の準備はできている……

 

 

次男の入院の付き添い中は、メディアから、8割くらい離れた。

見ないことで、余計な身体的な疲れがないように感じられたとき、「ああ、やっぱりこういうことか」と思えた。

 

そう、いつでも心の奥底では、SNSを見ない準備は、きっとできている。

「あまり後味はよくない」ということは、前々から重々に承知している。

それでも、よき伝達ツールでもあるともおもう瞬間もある。

もし、なくなるとしたのならば、適応していくしかないのだろうなあ、と、そんなふうに思いながら。

 

じゃあ、読書はどうかな。

 

 


そう考えてみると、いつまでもわたしにとって、続けたい要素のように思える。

本は、わたしにとって、ちょっと特別な物書き法で、読む側に特別な思い出をくれる。

客観的に読めることもよし。

嫌だと感じれば、読むことを意図的に避けることもできる。

 

並ぶ言葉の数々をじっくり追って、読んでみたくなる文章は、勝手にするすらと読んでしまう。

文章は、読みやすいでも、読みにくい、でもなく、なんというか、言葉の次の次を追いたくなる文章──それが、自分にとって読みやすい本になる気がする。

本好きの人なら、きっとそう思うこともあるはずじゃないかな。

 

そして、その先を読むも、読まないも自由。

読みたくなる本、そのジャンルもまた変化していく。──

 

読みたい、書きたいことも、すべて含めて考えてみれば、わたし自身はやっぱり、「じっくり考えてみることが好き」だということに気づかされる。

 

よく考えてみれば、物事も、それに近いような気がします。

 

動物でも、人間でも、命の危機に関わる状況ならば、きっといそいそと、本能的に逃げていくかもしれない。

 

けれども、「ちょっとした嫌なこと」になると、そうもいかない。それでも、だいたい不安なことには変わりがない。

 

それでも、不安は、なるべく回避する選択をすることは、可能な場合もある。

 

ときに、過去完了形のことに対して、二度とあんな思いをするならば、意地でもしない──と、思ってしまうこともある。

 

たとえば、自分自身の触れてほしくない領域に勝手に踏み込まないでほしい、というような感覚にもなる。けれども、自分の考えを察してほしい、という領域で考えることなく、物事をもう一度観察してみる。なにも予定通りに起こることは……ない。

そういう姿勢でいることが機転を利かせることにも、繋がるはず。

 

それでも、環境が変わってしまえば、一歩踏み出す気持ちにもなることもあるし、

あとは、時が経てば、思い出になることもある。

 

いつまでこのままにしておくか、回避するか。──

そういう対応する人生の境目は、いつ選択するかで、行動した拍子に運よいほうへ、環境も変わり、調子がよくなるかもしれない。

そういう具合をみながら、忘れられない経験もあるということを抱えて、なんとか生きてく。

 

そう、いつもみえている景色がほんとうではなく、ほんとうにみえるだけで、あたりまえなことではない。

それでも、聞く、読むだけでは、人生に面白みや実感もなく、ただ物語の中に入ってくようで。自身への影響力は、ぼんやりとしたままになってしまう。

 

結局、個人の人生そのもの、日々の実体験から学ぶことがでてきて、実感もする。

よって、考えかたも修正していくようになる。

好きなことでもあるけれど、継続して身についてくような生活の知恵なども自分自身の暮らし、そのものになる。

 

だから、人の気持ちがわからないというのも、実際にその通りなのかもしれない。

当人になってみなければ、事情もすべて把握できることはない。

だから、察してほしいとか、わかってほしいのに、という欲は上がってしまうのは、ある意味互いの矛盾を減らしていく作業になるのかもしれない。

 

互いの思いは理解できなかったとしても、受け入れて生きていくことはできる。そういうものだ、と思ってしまえば、気楽にはなる。

 

時間の使いかたには、生き方に気をつけてこう、という具合で。不安さや、葛藤を大きくする場合を回避する、補う、対策をする──ということじゃないかな。

性質的に違和感を感じることは、適度にして、なるべく避けてもいい。

 

そう、いつも気持ちの立て直しをしているのかな、とおもう。

回復するためには、ほしい栄養素も考えて、摂取する必要もあるし、休む、寝る、食べる、という主食的な柱を維持する対策も必要。ただ、自分自身の心の緊張をほぐせる領域を保てるように。

そんなるうに、続けていることで、つちかった技法でやりくりしていく。

 

そういう気持ちで、いつも警戒は絶えず、平気なふりをしつつ、生きていく。──

それが日常なのかもしれない、と思いながら。