暮らしを愉しむ

日々、考えること、好きなこと、暮らしをつぶやく散文記録。読書、観賞、暮らし方など。

「どこかちがう」こと

 

 

 

これまで、自分自身がちょっと変わっている人間だと思ってきました。今日は、そんな話をしたいと思います。

 

誰かと馴染めた気がしなくて、理解もしずらくて、誰かと同じようには行動しずらい。純粋にちがうんだな、と、そんなふうに思ってきた。

 

それでも、いまは、「どこかちがう」ということが、当然なのだと思えてくるのです。

 

誰もがすごろくのように、決まった地点で物事を踏むことはない。物事を回避することはできても、いずれか、どこかで韻のいう名のふんぎりをつけなければ、乗り越えることができない。「気が重い」ことと、「気が引ける」ことの振り分けなど。それが、考え方というものなのかもしれない、と。

 

それこそ、経験がものをいうのだと思う。経験があるほど、ストレスはともないつつも、少しずつ免疫力とともに、乗り越えることができてくような気になる。

 

 

「そうは思えない」というような発言についても、そうで。

 

よく聞いてみれば、このようなニュアンスで伝わってくる言葉はいくつもある。物の言い方は、後味が悪いということに似ていて、ちょっとした気遣いで、後味が良くなるように感じる。そういう意味で、わたし自身も気をつけたい。

 

「大体このような場合、こうするといい」とか、「こうした方がいい」と聞く場合は、疑わしくなってしまう場合も多い。ケースバイケースはあるけれども。

 

個人の見解か、経験上から物語っていることは、個人にとっては、首を傾げしげる疑問になったりもする。

 

考えてみれば、昔から自分自身の理想系を追い求める癖がある。そう思っていたけれど、

そんな思いが、歳を重ねていくにつれて、浮上してきているし、それが個人にとっての差があるという点で、通常のこと、だとも思うようになってきている。

 

参考例やパターンをみても、少しばかり個人なりに工夫したくなってしまう。「私の庭は、私の庭の構成で作り上げたい」というような感じに。──

 

 

「腑に落ちる」という見解も、それぞれにある。

ほかの誰が言おうと、個人の思慮深く考えた末であれば、それでいい。個人のなかで丸く収まることならば、問題はない。「ありえない」とか、「そんな人みたことない」と言われようが、ありがたいけれど、賛同はできない、と思ってしまえば、いい。

 

この前も何度かメディアで気づいたこと。価値観の相違を受け入れ合えば、大丈夫だということ。

 

「おかしいな」と思ったことも、たいてい個人の分析統計からきているものだから、きっと、何かが合わない部分がある。

 

そう考えてみれば、「気まずさ」というのも、互いの立場になって、会話のやり取りができなかったと感じる場合に、生じる感情なのかもしれない。「ああ、億劫だな」と気が引ける場合には、思考パターンを練って、考え直してみた方がいい。

 

賛同してくれなくても、それでも、理解は示すこと。それは、人間同士での異論異質、を深めるためには、大切なことにおもえる。

そこから生きづらさというものが、解消されてくこともある。

 

この議題については、日頃よく考えるのです。

まだその、途中。──