暮らしを愉しむ

日々、考えること、好きなこと、暮らしをつぶやく散文記録。読書、観賞、暮らし方など。

日々をどう過ごすか、の問い




日々をどう過ごすか、という問いは、人生をどう過ごすか、なにをすると良いか──の選択によって、育まれていくような気がする。

 

こうして書く時間は、私にとって必要だけれど、そこまで時間も費やしたくはない。
「時間の使いかた」も何かをしている最中、もしくは、その後を振り返ってみる機会を持つからこそ、書くことが湧きでてきやすい。

 

わたしの人生には、優雅さといえる派手な様はない。それでも、作ろうとおもえば、いくらでもできると思っている。けれども、なかなかに毎日が忙しいもので……
人生は、楽しいだけじゃなく、酸いも、甘いも、苦さのなかに楽しさを見出したりするいま、起きていることが事実であって、良くしていくことはできるという前提で── そんなふうに、日々乗り越えていく訓練をしているような気がする。

 

極論、そこそこ食べて、よく眠れたらいい。その日々が続いていることが、ありがたいのだと思える。

 

精神面へ物事を考えていくようになれば、物質的なものに対しての欲は、減っていく。
というのも、あまり必要がないように思えてきていて、わざわざ一時のために用いる必要性がなく、あるものでやりくりしていく。

家にいつも常備してある、砂糖、みりん、しょうゆ、お酢、ソース、スパイス、ハーブ、にんにくなど──あるものでの組み合わせかたは、知っている限り複雑で微妙にちがう。
そういう組み合わせで循環させてくほうが、目新しさはないけれども、工夫した新しさということで、満足度も高い。

 

 

書くことも、結局書くことが、題材になる。
なにかのものを用いて書くことも、ついでに過ぎなくて、なにをしているかのほうを、主体的に書く。
そのことの大切さについて、これまで随分と悩んできたけれど、ようやく分かってきたような気がする。

 

何かが長けていなければならないとおもってきた。けれども、いまは特別表示をしなくても、いいと思う。
けれど、よく考えてみれば、こうしていろんな話ができるということ、話しを聞いて考えるという機会が、自分にとって有意義さをもたらしてくれると思ってきたような気が、してきているからかな。

とくに特別でもないことも、こうして書いてみるから感慨深くなる。そう思える、たのしさ、生きてる実感。──それさえ芽生えたら十分じゃないかなと思えてくる、このごろ。