暮らしを愉しむ

日々、考えること、好きなこと、暮らしをつぶやく散文記録。読書、観賞、暮らし方など。

冷静に考えてみれば、

 




周りをみるとき、誰に対しても関心状態がする──いつもなら感じる心の平穏さに、欠けるような気がする。考える余裕がない、という状態に近い、と言えるのかな。

 

あれこれ考えることが、とくに増えている時期は、やるべきことをこなすことで、手一杯の状態。どうしたものか?と考えてみれば、余裕がないことは、たしかによくわかる。そのせいだろうなあ、と、そういう物差しを日常でみつけて、考え直す。──

 

そもそも、余裕がなくたって、やらなければならないこともある。そして、やらなければならないことだけ、こなすことも、有意義なこと。

人生の中で遭遇する、見かけるどんなシーンも、よく考えてみれば、一言では言い表せないような、いろんな感情にさせられる。きっと、見ている人もそうなんじゃないかな。

 

余裕がなかろうと、神経が尖っていようと、それでこそ、生きている。毎日、はちゃめちゃなのが、まともなこと。もし、明日死ぬとわかっていたのなら、こんな日常が、きっと素晴らしく思えるだろう。
結局、無事に終えたのなら、「よし。よくやったよ!」と自分自身を労えば、自己満足はできる。こういうことかな、と思える。

 

あることに嫌気がさせば、どうせ乗り越えるしかない病む負えないこともあるし、どうでもしなければいけないと思っている昔から染みついた影響からくる考え方で考えるから、へんに、苦しくなってしまうこともある。

それでも、乗り越えるには、乗り越えられるように切り替えて、過ごすことが最善。いつか自然に解決していくこともある。毎日が、いつも同じような気持ちで過ごしているわけでもないのだから。

 

一日の中で、どうしても気晴らししたいことはあるし、特別になにかご褒美として必要に思うことはある。毎日ではなくても、たまには、日々につかう労力を癒すために、普段できない体験をしてみたくなる。そういう日があるのは、自然なことで。

 

気づかいについても、そう思う。誰かに対して、ある場面の際には、「こういうふうに察してくれたらいいのにな」とつい、思ってしまうことがある。

世界は自分の思う通りに回るわけでもなく、一人のことを気にかけてくれるわけでもない。
そうわかっていながらも、運よく、自分自身に対して思う以上の対応に遭遇したり、「気にかけてくれるという存在がいるんだなあ」とおもうと、「生きてる甲斐があるもんだなあ」、「生きてる心地がするなあ」という気になる。
それは、幸運でもあるし、少なからず、自分自身の対応力で左右されることもありそう。
そう、人生のなかでは、怒りもしないだろうなあ、ということが起こることもある。


こうしてみれば、「むなしさ」というというものは、必ずしもついてくるものだと思う。地球上で生まれてきた人間の本能として、生きる疎外感や不安を感じることがあるということは、こういう場合に感じるのではないかな、と。

そういったように、いま見ていること、起こることに、どう感じて、どう考えてみるか──は、きっと、自分自身の視点で見えていることが、すべてじゃないはず。
それでも、あえて気にしなくていいこともあるし、考えすぎることもあるだろうし、やっぱり気にして接したほうが無難だよね、とも感じる。
余裕があるか、ないかで、そういった自身のバランスを確認しつつ──。

 

 

そういえば、次男の手術2日前に、携帯が壊れました。

バックアップもとっていなくて、データも完全に消えました。

それでも、思い出は残っているものですし、いずれか処分する日が来ますし、取っておく必要もないものなのかな。と、思えば、気が楽になりました。それでも、出費は痛かったですが……

こういうこともあるのだな、と。

 

みなさまも、お気をつけください…!ということでした。

 

 

では、

いつも訪れてくださり、ありがとうございます🍀