暮らしを愉しむ

日々、考えること、好きなこと、暮らしをつぶやく散文記録。読書、観賞、暮らし方など。

あくまでも、ご意見は、参考に。

 



よくメディアでみかける、ご意見番的な人の意見がネット上で盛り上がることに対して、こんな場面を見かけると、最近は少しゾッとしてしまう。誰かの生き方について、何かを物申すことは、一体、どんな気持ちなのだろうか?と、考えてしまう。

誰かを直接ではなく、介して話題にする、否定する、ことも、「そんなこと言わなくてもいいじゃないの」と、ついつい、思ってしまう。

 

けれど、わたし自身も振り返ってみれば、同じように言っているように聞こえるのかもしれない。

だから、こうして文章に話すときには、決まって、いつも気が引けるような思いに、ほんの少しばかりなってしまう。

こうして、書きたいことについても、変わっていく。──書いていたことについて、「なぜ、あんなことを話してしまったんだろうか」と反省することもあるもの。

 

誰かと話すことよりも、大勢の人に話しているという気持ちになるからかな?

「いや、そんな私の文章など、対して気にして見ている人なんて、いないはずだろうなあ」そう思いながらも、やっぱり、見られている数というものは、少しばかり気にしてしまうもので。

 

 

自分の書いた記事を読み返してみると、「ほんとに自分が書いたことなのか?」と、不思議に思うことがある。

それでも、いまのほうが、書き方としては、断然好きということだけは、よくわかる。

 

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おそらく、PVやいいね!を、あまり気にすることなく、なるべく自分自身の思いを伝わるように話してみるようになって、少しずつ「自分自身の意向」へと修正されていくと、なにか煩わしいものが取れてくるような感覚になっていく。──

 

そして、偶然見かけて、読んでみてくれる方がいること。話しかけてくれる人がいることに、ほんとうに、有難くなる。

私の場合、話しかけるという行為自体、することは、滅多にないものなのに……

 

話してみることは、こういう場でないと、自分の思いを自由に述べることはできないもので、身近な人に、まじまじと一から十まで、話してみるような場合もなければ、「そういう機会なんて、あるのかな?」とさえ、思える。

 

それでも、気楽に話せる存在は一人でも、二人でも、必要に思うことがある。

 

生きていると、一人で考えるだけでは、これでいいのかな?となにか悩ましいきに、判断もしにくいこともある。

そういう場合は、夫には、必ず相談してみるようになってきた。これも、最近になって、なのだけれども。

 

ふと、考えてみれば、夫には、自分には欠けているような部分を高めてくれるような効果がある。──そういう思いが増してくるように感じるのは、きっと、納得する意見をくれたり、心が軽くなったり、気にしていることを、いい意味で気にしないように振る舞う姿勢が、わたしにとって、よい影響を与えてくれているのかもしれない。

あとは、だいたい考える方向性が合うということ──そういう身近に一人だけでも意見が合う人がいるのならば、それだけで十分乗り越えていけそうな気がしてきたり。正確にいえば、意見に理解を示してくれるような人なのかな。

 

こうして、書いているとたどり着く結論は、

「意見は、参考にすることであって、話す側も自分自身が思うことであって、聞く側に求めることでもない」ということ。

 

それでも、尋ねてみたくなる。話してみることで解決されてくこともある。──

そういうふうに、過ごしてみよう、

と、思うのでした。