「もっと気を楽にして過ごしてみよう」と、よく思うことがよくあります。
気楽に考えるというのも、ただ何も深く考えずというわけではなく、あえて、気を楽にするほうへ考えて、仕向けるようにして。
物事には、案外こうしておいたほうが、問題をなるべく避けて気楽にいられるということもあります。
つい、かっとなってしまうような出来事ももあるけれど、一旦落ち着いてみれば、「なんでこんなに血の気が多くなってしまったんだろう?考えすぎてたなあ」と、あの時の自分に対して、ツッコミを入れたくなることも。──
どうしても、「一歩引いて落ち着いてみる」ということは必要で。
とくに、子育てしていると、あれこれに気が立って、悪い母親にも見えたりする──
それでも、自分自身のなかでイライラすることは悪いことではない。イライラしてもいいし、個人の胸の内で議論を展開して、反省を繰り返し、消化できることもある。
冷静に考えてみれば、そんなに怒ることでもなかったし、自分自身の考え方に、非があることにも気づかされる。
気にしすぎないように、自分自身と誰かを、天秤に均等にかけられることはできないけれど、こうすればどうだろうと耳を傾けて改善していく意識が大切だな、と思わされる。
「どちらが不足しているというのではなく、お互いに能力、視点のバランスが均等ではないよね」と思うこと、それが当然のことであるということを、頭の中にいつも収めておくことは、決めつけすぎないで、気楽に生きていけることにもなるのかもしれません。
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最近、「before Midnight」という映画を見たのですが、そういった映画の会話のなかにも、じわじわと面白みがでてくるのです。
SONY pictures at home公式youtu.beサイトより
ただ、この映画の全三部作の最終作をどうしても見たくなって、ついに観た!「なんでその映画が見たくなってしまうのか、気になるのか」と考えてみたくなったのがきっかけ。
主人公ふたりの、じゃれ合うような、小言を言い合うような掛け合いに、胸がジーンと熱くなったり、モヤモヤしたり、忙しない気持ちになったり──
とにかく、こんなに終始会話だけ続く映画でも、聞いていて終始おもしろい。映画の会話のなかにも、じわじわと面白みがでてくる。──そんな映画。わたしの中では、すごく珍しい感覚になれた作品。
さて、その映画を観ていて思ったのが、いつも誰かと「話をしている」ことから、複雑さや考えごとが生じてくるということ。
話しながら聞いていると、いろんな考えが自然と過ってくる。その考えを、個人で深く考えてみることが、有意義な時間にもなる。
物事を「いいね、良くない」と決めつけるのではなく、そのことについて気になったのならば、ぼんやりと頭の片隅に入れておいて、考え続けながら知らないことを考えてみる機会として考えていく──
たとえば、本を買うか迷う際に、目次や内容をザラっと確認してみる際、「だいたい興味が湧くことなのか、知らなくて読みにくいことなのか、読んでみても感銘を受けないことなのか」ということも、考えてみると、いまは関心がなかったり、理解できないことであったりもする──
知らないことはほぼ知ることは難しいことであり、気になることを知ろうとしてみることは、無理にしようとすることでもない。けれど、偶然見かけたり、気になったことから、考え直す新鮮な気持ちが浮上してくる機会になるものです。
考えごととは、ときには悩みとは別もので、
楽しいことを増やすということは、楽しいことを行うといっても、「あれをしなきゃ、これをしなきゃ、」ということだではなくて。これができて良かったよなあとか、振り返って思い返してみるなかで、実感することのなかから、浮上してくる思いを、維持することなのかもしれなくて、現実的な状況から楽しさも考えていくから、生み出せるのかもしれない。
たとえば、今日のことです。
今日は、一日中雨でした。子供たちが帰宅しても、なんだかやる気が起きない。ふと、「いいことないかなぁ」などと、思ったのです。
「じゃあ、ピザでも宅配で注文して気分あげようかなあ。いや、待てよ、いま過ごしているだけでも贅沢じゃないか。わざわざピザなんて頼まなくても、子供たちとただ楽しくおしゃべりして過ごす時間でも、幸せなことじゃないか。いやあ、それでもピザは食べたい。結局、注文してみんなで美味しく食べた。幸せだなあ」──と、そう思いました。
そのとき、大事なのは、もしかすると、幸福感を感じられる状況にするその過程の考え方なのかもしれない。──そう思ったのです。
たとえば、本を読んだり、誰かがいう、現実は逃げていかない、現実は平等ではない、ということもまさにそうで、現実に対してどんなに文句は言えても、追い散らすことはできない。それでも、向き合ってなるべく解消することは可能。そういうことなのかな、とも、思ったり。
経験は、いつもぼやけていて曖昧であるかぎり、さまざまな解釈で生きていけるけれど、それが未知でもあるではないか──
理不尽だと思えばそうなるけれど、物事の流れには逆らえないとしても、自然についていくしかないようにもなる。そこで新たな楽しさをみつけていく。
ときに、「ああ、あの人がいなくなってしまってしまって、どのくらい経つのだろう」と、そう考えるときがあります。
大切な時間を過ごした人の不在を感じるとき、悲しみに老けてしまうことは、いつのまにかふと思い出すくらいにもなるし、
そもそも大切なことは、日常でふと、思い出してしまうこともある。
そう、悲しみというのは少しぼんやりとさせていたほうがいい。そのほうが前向きでいられるのだと思ったりもします。
ふう……ちょっと、長くなりました。
けれども、かんがえることは、たのしいです。