:玉ねぎの皮が向けるような、中身が潜んでいるような感情
ただ今、夫が一時帰国中。どこかに行こうか?と言われたとき、「ただ家で過ごしたい」という考えしか思い浮かばなく。ということで、私たちの過ごし方は、ガーデニング作業で親睦を深めるということ。あとは、家でゆっくり休んで、味わって、過ごすこと。
最近はそんなにどこにも行きたいわけでもなく、家でじっくり時間を過ごすことで、充実しているのを感じます。どこかに旅行に行きたいのも数年に一度で十分。観光やら美味しいものを食べに行くという欲も、まったくなくなってきている。それでも久しぶりの家族で過ごす時間となるとちょっとした行き先で美味しいものが食べたくなる。こういう気持ちの表れがでてくる瞬間は、なんだか幸せを感じます。
この記録も振り返ってみれば、いまはへんな肩の力がなんだか抜けてきたような気が。
文章を形式的に綺麗にまとめたり、凝縮することも読みやすい。実際に本を不定期的に読むことは好きで、新しい感覚にもなれることがある。それでも、あまりにも形式的に馴染もうとすると、その人のニュアンスは感じられにくい気もする。
表面的な意味以外の、言葉を並べて、情緒的な意味や細かな部分も、もしかしたら無駄だと思われるかもしれない部分だとしても、日々変化していくことを語って本のように、つらつら記録して更新してくことが、私にとってはどうも最善のような気がしてきている。人生のほんの一部分を記録していくカタチで。
何かを伝えようとしているわけでもなく、こういう人がいるということ、のお話として。覗いてもらえたら幸いだなあ、と、ただただ思います。
実際のところ、私自身、ネット上のコミュニケーションを積極的にとることもなく、ただ色んな人が考えていることを覗いては、個人的に考えてみる人間。そのくらいがあらゆるものを考慮したときに、心地よく感じる。
実際に私自身は、ネット上で積極的なコミュニケーションをとることはなく、むしろ人々がどのように考えているのかを覗き見し、自分自身で考えをめぐらせることが多い。このようなアプローチは、あらゆる要素を考慮する上で心地よく感じる。
相互の視線や見られることに対する意識は重要ではあるけれど、そこに期待や欲望、見せるという縛りが生じると、生きづらくなってしまう。そのため、マインドを調整して物事を感じ、考えてみる。
本を読むこと、Netflixで鑑賞すること、記録すること、ガーデニングすること。好きなことは多々あるけれど、適度に生活に取り入れていくのが、ちょうどいい。
そこに費やす時間は、なんだか新しく玉ねぎの皮が向けていくような感覚になる。「ああ、新しい私、こんにちは」というよりも、「ああ、こういう私の一面が浮上してきたのね」というように。
一点集中しすぎれば、偏りが生じ、視野を広げ過ぎれば疲労がたまりやすくなる。物事は移りゆくものだから、その都度割り切って、どれも程々に付き合い、どのように動くことが、個人にとって精神的によい状態でいられるのかと、理解しながら向き合っていく。性格を把握したうえで、行動をセーブしてみることもいいし、自分に対して過剰に反応しなければ、冷静に対応しやすくなったりする。個人の視点を浮かび上がらせながら、そういう物事の合理化も必要だな、とそんなふうに思う日々。
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