:とりまく環境からこそでてくる幸せ
連休が明け、久しぶりの1人で過ごす時間も確保できるようになり。ちょっと神経をやすませることができています。それでも、何はともあれ、とにかく毎日大変。ちょっとした気休めの必要性をひしひしと感じています。
というわけで、昨日は用事や仕事を済ませた合間に、少し特別に、自分を労うためにランチへ向かいました。なんとも至福の時間でした。
この幸せ感は子供たちが元気でいてくれて、少しの合間の休暇だからこそ感じられるものであって。あくまでも子供たちが存在してくれて、私の生きる活力と活動が存在するための、つかの間の至福の時間だからこそなのだと思いました。
:変化する中でも安心する居場所を
これまで自己啓発的な教えが記されている「○○な方法的なもの」を読み漁り、参考にするためにしてきましたが、個人的にもう疲れてきていて。読むと左右されやすくて、自分で自分の人生を振り回すモードに入りやすいので、自然と読まなくなりました。
情報には、あることなすこと影響も受けてしまいかねないわけです。自己判断の大切さをより一層感じてきています。
誰かの意見を聞いて、焦ったり、切迫する気持ちになったりもするけれど、そもそもそれぞれの適応してくための生き方があるのだから。感銘を受けたり参考にしたくなっても、大切なことは、「取り入れたい点からさらに、自分で導きだす自分なりの答え探しの材料として考えていくこと」だと思ってきています。
なので近頃は、たとえば自分なりの日常の思いを、独り言のようにつらつら記されている文章が好きだったりします。そういう中にこそ、日々の大切なモチベーション維持法が隠されていたりします。
誰かの綴っているブログや映画、ドラマの物語から、日常のとある物語を聞いたり、観たりする観点からの方が、なんとも感慨深く考えやすくなります。ラジオのようにただ聞いてみているくらいが、ふと頭の中にインプットしたい部分を感知して、すんなり心に入ってくるような感覚を大切にして。
個人的にその内容を好むかどうか。──好きになれるかどうかって、けっこう大切な部分だったりすると思うようになりました。自分ではない人を知ることも、人生の大切な意味になる気がしています。「生きる楽しさ」とは、そういう中から現れいでくるのだと思います。
結局のところ、環境に左右されて、得ることが必ずある。複雑な暮らしの中で「いかに快適に暮らすために工夫しておもしろくしていくか」とか、「好きなことを集めて耐えていくか」が必要だと思うのです。
ひと言で好きなことといっても、縛られていくのはいいことではなくて、その都度でもあると思って付き合うこと。変わらないことは、自分のためになっていて身についていることだったりして、自分にとって自己探求として続けやすく、取り入れやすい方法なのだと思います。それが、私にとっては、物書きなのかもしれません。毎日の積み重ねで先も分からないけれど、その先の一日一日を大切に繋げてくための方法として。
例えば、子供たちと過ごしていてごく自然に風邪菌に抗体がつくとか。今日新調した眼鏡の度にも不自然だった感覚から慣れるとか。そういう必然的に自分の身の回りを選んだ中でその環境に適応していくために起こってくることがあります。
最近は、あれこれでてくる欲について考えるというよりも、人生のウンザリする場面をうまく回避する心得みたいなものを見つけ、目の前の環境をより良くしていくこと。それだけで気楽に生きてける気がするし、そこが大切に思ってきています。