先日、とある有名人の対談動画をいくつかみました。
話題について個人の見解で予想してみたり、同意したり、異論したりと、展開されていたけれど、意見が分かれることも、それぞれの持論があって、予想は立てることができるけれども、結局のところ、予想通りいくかどうかは、まったくの分からないところ。
心が揺れ動くように物事もどうなるのかは、見据えてみることしかできない。改めてそう思えた瞬間でした。
気にしなくてもいいことについ気を取られることも多く、いつ、どこでも、ある程度の心の予防線の必要性を感じています。
知っていても、知らなくても、必然的に、偶然に、訪れることもあれば、心の準備ができているときに起こればいいことだけれど、そういうことだけでもなくて。
それでも、思わぬときに誰かに支えられることもあったり。
はるかに自分だけの力では乗り越えられないことがたくさんあって。
それでも多くの懸念は、あまり必要ないことにも思えたりするのです。
それでも生きてる間は、誰かの意見に左右されすぎず、学びたいことは学び、いいなと感じたように生きてみたいと思うこともあれば、たいていのことは、自律心をもって行動しなければならないことだらけで。どれが自分の本音なのか分からなかったり。それでもいつも臨機応変に適応できるような心構えはしていると楽かなと、思います。
考えるべきことって、見据えてみる程度でよいのかも。──そう思えてきてもいて、最近は随分と考える疲労感が減ってきた気がします。
単純に、話す内容、考え方が面白いので見てしまうふうに、いいなあと思った人は拝見すること。
最近は、情報の取り入れ方も選ぶ場所、選び方も、随分と選別していくようになり、ジャンル別とかそういう枠に対しての関心もなくなり。個人的にも、ただ考えることの散文として綴りたくなってきています。
日常に新しい視点に触れさせてくれるとか、体験をさせてくれる。そのような価値観の変わる機会、実用的に役立つこと、近くにいる大切な人との時間へ努力していけば、考える充電の減りも緩やかになって、使える部分に身体的に注げるという効率よい精神で居られるし、ゆとりが生まれてくる気がします。
ただ、こういうことを考えながら思うのが、新しい自己見解に行き着くまでには、いつも考える過程が必要にになるなあ、と。ふと、そういうことを心得て考えて感情を調整していけたらいいのかなと、思うのでした。