言い方には敏感な方で、言われたことよりも、言ったことに対して割と敏感な方だと思います。
こうして書いたり、何気なく生活している時に、よく感じられたりもしますが、結局、ちょっとした細やかな言い方、接し方によって、伝わる感覚は違ってくるのだと思います。あとは相性としか言いようがないのかもしれません。
いままで、余計な心配事をしていたのだとも思ってきています。
ほんの些細なミスなどを気にして、“まったく自分は……”などと深く考えすぎて、自分だけで自責に苛まれてしまったり。けれども、実際のところ、そんなに誰かが自分を気にしている訳でもないし、個人の存在を過敏に気にしていたとしても、どうしようもない。そう思うと気楽になります。
結局、自分のことで忙しかったりするのが大半なのかもしれません。余計な心配事を減らし、心と体の余力は自分で確保しなければならないことが多い。頭に余白を作るためには、じっくり考えて立ち止まってみることが、大切なのだと思います。頭の中の複雑さも減って、なにか大切なことに触れていられる時間が、流れていく気がするのです。
4月はとくに季節柄、変動の大きくて忙しい月です。
ちょっとした手続きが手こずったり、新しい出会いもあったりで、どぎまぎしたり……。ほんのちょっとの行き違いが、互いによく起こるようです。とくに、そんな時期だから。どうしようも無いこともある。そう思えば、季節関係なく、誰もが心がけていたとしても、手に負いきれないこともあります。
それでも誰かとどこかですれ違ったり、少し言葉を交わしたりするそんな関わる時間は、生きてる実感がします。誰かと同じ空間で浸ってみるのもいいものです。(これも結局、大半は私の勝手な妄想や思いを紡ぐだけの時間にはなってますが。)
世の中に溢れる、もの、事柄については、ノータッチとは言わないけれど、一応、小耳に挟んだことだけにしておくようにしています。
誰かの人生成功例も、読んだ思考法も、参考にはなるけれど、その言葉通りに受け取ってみれば、上手くいくわけではなく。実はそのなかに本人だけの解決法に基づいた心の持ち方、生き方があるからこそ、上手くいくのかもしれません。
まったく同じようにはできないからこそ、本人にしかできないことがある。誰かの真似をしてみても、逆に機会を逃したり、見失うことにもなりかねないのだと思います。万人に通づることはないのかもしれません。
結局、アドバイスは受け止め、参考にしてみて自分で確かめてみることが、一番いい方法のような気がします。生き方もそれぞれだと思い、自分の大切な思いを胸に留めておけば、少しのことで不平不満を抱く機会さえも減ってく気がします。
:生きる音と、情景と
カチカチッと音が鳴る靴を履いているとき、あぁ、いま自分の足で歩いてるんだ。生きてるんだ。と、生きてる心地がしたりします。最近は、そのように生きてることに触れていられる時間を大切にしたい、と思います。
今日、用事ついでに、いつものようにふらりと書店を見回して、書店内にある雑貨屋に寄った際のことです。
雑貨たちに目移りしつつも、より一層迷いが生じ、随分と買い物するものに慎重になってきていることに気づきました。以前よりも、必要性の有無の問いが大きくなってきたことに、気づいた瞬間でした。“これは……ほんとに必要なのか”という疑問が、思った以上に出てくるようになってきています。
個人の生活シーンでの必要ゾーンが、定まってきたのかも。そう思いましたが、わかる感覚と言えば、買うときに“生きる実感がするもの”を選びたくなっていること、です。
自分の中の基準にしかすぎなくて、ここについては、“個人それぞれにしか分からない特殊な境界線”というものがあるような気がします。
限定的でもなく、応援したくなること、人、関心があることについては、幅広かったり。読書や旅行、趣味など、自分にとって、大切な時間を作ることが、生き方として見定めるポイントにもなってくるようにも思います。
そのように、その都度何が大事なのか、と見直して、見つめてみる時間はいいものです。
物事を合理的に考え、適応できるように自分なりの生き方に合わせながら。そんなふうに、その都度、プログラミング的思考で生きるのがいいな、と思っています。
今日も、
訪れてくださりありがとうございました。🍀