とある暮らしの散文日記

珈琲、読書、観賞など。日々感じたこと、考えたこと。好きなこと、暮らしをつぶやく散文記録。健やかで丁寧な暮らしを求めて。

まだ知らない気持ち

 

近頃、今まで苦慮してきた物事が「ストン」とひとつの場所に収まっていくように、整理されていくように感じています。
何かにすり減っては、休んだりして、その都度のコンディションというペースに合わせてやっていこう、とも思ったりもします。

よい形で「思考」と「行動」と「変化」が抵抗しない、というか連動していくようにも感じられて。「こうでなければいけない」という周りの声や固定観念、執着を乗り越えて、自分なりの人生として、暮らしを工夫したり、たのしんだり。何かから得たものを、自己の知恵として吸収していくからこそ、生きやすくなる気がします。あぁ、大切なことってこんなことだよなぁ、みたいに、良い意味で、悩んでみる対象が、狭まった感じもしていて。

傷ついたり、誰かに理解してもらいたいなどと思う気持ち。この頃は、そんな気持ちさえも、胸の内でかみ締めてみるだけで、十分に趣があるようにも感じられてきます。
それでも、有難かったことだけは、伝えるようにして。


本当にごく近い距離のことしか、実際には触れられなくて、見渡すことも見ることもできなくて、近くにあることさえ、よく凝らしてみなければ、わからないこもとあって。同じ国でも、遥か彼方の場所でも、過去でも、今でも、分からないことだらけで。生きてる中、ほんの少しのことしか、わかることができないような気もします。


やっぱり慣れない気持ちもあるし、
慣れていたことに嫌気がさすこともあるし、
ある日突然沸きでてくる気持ちもあります。

詩人、
ヴィスワヴァ・シンボルスカのいうような、

絶えず自分に対して「わたしは知らない」と繰り返していかなければなりません。

問題が一つ解決されると、そこから無数の新たな疑問がわき出してくる」、それが思考のいのちだと  

 

という気持ちが、少しわかる気がします。


よく眠って、食べるようにして、活動して。
毎日息をして、ごはんを味わって食べて、というのも、難しいものです。みなさん。
自分の世話をするのだけでも難しい。

ときには、わが子のちょっとした怪我だけでも、心臓が持たなくなりそうです。頭が過敏に反応し、生きてる心地がしなくなったり。そんなふうに母親としての心配心は、一生消えることはなさそうです。どうか、なるべく痛むことなく、健やかに生きて欲しい。これが、一番の願いなのかもしれません。


人生は短い。だから、一生懸命生きないと、と思ってきました。
けれども、よく考えてみれば、これまで、すべての瞬間が、懸命だったのだと思います。そして、いまも、そのつもりではいますが…

いまを生きている。
ただ、そう考えてみるだけで、十分に奥深い気持ちになります。そして、いつか儚く消えてしまうもの。だからこそ、生きてること自体、なにかに生かされ、たのしむことで、生きてる実感がするように思います。

 

 

タリーズコーヒーに寄り道。

久々のGrandeサイズを。

飲みたくなる時は、飲めますね。

 

 

こちらは、雨です。

みなさん、素敵な一日をお過ごしください。