おはようございます。
訪れてくださり、ありがとうございます。
今回も、つらつらと最近思うことを書いてみようかと思います!
このごろ、𝐓𝐰𝐢𝐭𝐭𝐞𝐫でつぶやくのが、地味に楽しくなってきています。
以前までは、「べつに、こんなこと言ってもなあ」とか、「NOTEでだいたいのことは書いているし─」なんて、思ってもいました。
けれども、なんとなく呟いてみたいけど、つらつらと書けないような、簡単なひと言を呟いてみると、楽しさもでてきたり。意外に反応をもらえたりすることも、多くあったり。
つぶやくのも、誰かが反応してもらえることで気づけることもあるし、
ブログでも、コメントを頂けるときが、発見にもなっています。
さらにありがたいことに、コツコツ書き続けてきたブログでも、部門のごとの上位10番以内にも入れたりしました。
つい、昨日も「おかげさまで」という言葉が好きだと話しましたが、 いつも誰かのおかげで、自分の気持ちを知ることができているように思います。
日常生活でも嬉しいように、誰かに自分の話に乗ってもらえることって、ものすごく幸せなことに気づける瞬間でもあります。
誰かとの共有は、純粋に嬉しく、求めず、求められずのうちに、自然に見つかる幸せになるものは、さらに嬉しかったり。
書くことも、自分だけじゃ面白さを見つけていくことができないことも思い知る。
誰かと話したり、読書したり、映画を見たり、音楽を聴いたりすることは、目新しさや、新鮮味を取り入れる行為であるように思えてならなくなりました。
=新しい自分の気持ちを知りたい行為になっていて。
新しいことを知ろうとしていることには、「気持ち」よりも、「行動」が先に予測してしまっていることでもあったりもします。
「新しいことを知ろうとしている自分」として日々活動をしていけば、「いつも自分を知ろうとしている行為」に必然的につながる。
いつもどこかで、見つめ直して、新しい自分を紡いでいこうとしている、日々。
「なにを言うか」よりも、「なにを話すかが大事」だとよく聞くけれど、これって掘り下げてみると「何を話してみるか」が、大切なのかもしれない、と思えたりしています。
書くことも旋律のように
最近、書くことも、ようやく自分のなかで縛りみたいなものが、取れてきたように感じている時期でもあります。
書き方も色々試行錯誤し、工夫してきましたが、そのせいで、自分の置きたい重点の話が逸れてしまったり、うまく話せなかったり…と、そんなズレを感じることがよく起こりました。
自分の話したい流れに沿って話を進めてかないと、自分の書きたいことが書きづらくなる現象が起きやすくなる。──
「やっぱり、話す流れもテンポなのだな」と思っています。
もちろん、頭の中で整理されてないこともあるから書けないこともありますが、「……あれ?書きたいこと沢山あったのに……」と言うときには、だいたい「難しく考えて書こうとしていること」が、いちばんの「書きにくさ」に繋がってるように思います。
自分で考えて結びついたことをまとめて書かなければ、自己整理もできないのと同じ原理。誰かのように書こうとしても、頭は働かず、手は止まり……。
自分の「書けるスタイル」じゃないように演じて書こうとすると、不思議と書けなくなるのです。
話すことは、自分語りになってくのが、話しやすかったりもするし、快適さも生まれてくる。「言葉の旋律」というところでしょうか。
知識みたいな話って、もう技術が発展してきてAIがわかりやすく導き出してくれるわけでもありそうなので。それでもう十分になってくるのではないかな、とますます思ったりしています。
どこかで聞いたことのあるような話でも、その人が話すから心に響くとか、面白くなる、ことって、よくあります。
わたしは、よく考えてみれば、むしろその“「話し方」によって救われてきたのだ”、と、改めて思ってきています。
よく芸能人の話を聞いていて思うのが、トーク力も、その人からでてくるエピソードに沿って、もちろん話が進んでいく。その人だから、話していることが絶妙におもしろくて。
その人らしい語り口があって、伝わってくるものがあるからこそ、面白みがでてきたり、
「は〜ここでこういうのか!」と、予想外さに心打たれたり、面白くなったり──
「あ〜この人の話し方だ」と思える人を、好んでみてしまいます。
なんというか、安定感もあれば、「この人の言うことは、なんだか面白いなあ」と、惹き付けられてしまうものもあるし、そのなかには信頼感もふくんでいるのかもしれません。
文章を読んでいても、動画や声だけでも感じられるようなその人の心が、たまらなくすきです。
「耳を傾けやすくなる」「耳を傾けやすくする」ことは、非常に大切なことなのだと感じています。
日常でなにかを見つけるための、記録
自分にほんの少しプレッシャーをかけながらも、毎日記録を続けてるのも、べつに、誰も求めているわけではないけれど、もはや「自分との向き合い」のトレーニングというか、習慣にもなってきました。
「今日は書くことがない」にしたくなくて。毎日おもしろさを見つけたくて。書いてるような気もしています。
書かないと、何だか大切なことを、そのまま水につけて溶かしてしまうような、ぼんやりと感じられたあのときの味覚を、忘れてしまうような──
なんとも、身体のめぐりが悪くなるような気がして、書いていたりします。
「書かなければ気持ち悪い」というのも、よい意味にしていけば、ずーっと続けられることにもなります。
何かに集中できるときって、このような気持ちなのだなあ、と思うのです。
なにかに夢中になれることは、作り続けなければ困難なのだと。
なにかに夢中になることって、じつは身の回りの小さなことでもあるのだと。
結局、「日々の気持ちのつなぎ」として、書いているような気もしています。それが、なんとも言えない楽しさや、気づきになってくようです。
これはこうだからと選んでしまう時点で、何かをせばめてしまうし、大して誰にも影響は及ばない偏見は振り払って、「どうこう言わずに、まず、挑戦してみよう」という志しを持って。邪魔しているのは、たいてい自分自身だったりするのです。
その気持ちが、誰かにも伝わるということ。誰かをみているときには、そのことが、よく感じられるので、気をつけよう…!と思える瞬間でもあります。「ひぇっ」となるのです。
これも、コミュニケーションのとり方そのものなんだろうなあ、と思えて、学びたい点が日々見つかっていきます。
やっぱり、楽しくて心がほぐれるような文章を書ける人、話せる人は、「日々の気持ちのつなぎ」にもなるし、耳を傾けやすくもなるのだと。
抑圧したり、否定的なことよりも、「なにを言わないか」も大切なのだと。
「やる気がでる」には、何気ない芽をふくらませていくための「心のもち方」にもなるのだけれど、少なからず、目に入ってきたりする場所も「ふふ」と、笑える場所であって欲しいと願ってしまう。誰かも見ているという場所でもあるから。
苦しまぎれに笑って、救いを見いだせるように、なんとか夢の話を続けて、生きていけるようでありたい。遅咲きでも、いつ咲いてもいいから、誰もそれぞれなんですよね、くらいの気持ちで。前よりも今がたのしい、最高だと思えるように。
みなさま、ステキな一日をお過ごしください🍀
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