訪れてくださり、ありがとうございます。
今回も、備忘録です。
文章を書き始めるのが日課になると、知らず知らずのうちに、自分のいらなかった概念みたいなものが剥がれることもあれば、自分らしさというものも、見えてくるような気がします。
書いているときの違和感や、書き終えたあとに読んでみる違和感もあるし、未だにその違和感と向き合い続けている気がします。
「その違和感とはなんぞや?」を考えながらも、日々変化する自分の心と向き合うことに振り回されつつ、その振り回されている自分も、だんだん冷静に客観的に見ていくこともできてくような気がしています。
「あぁ、あの人はもしかしたら」とか「その人とその人の掛け合い」とかの狭間を見て考えていくことが、 すごく感慨深くもなれるし、人生の面白みにも年々重ねるごとに、ますます加わってきているような気がします。
なので、「おかげさまで」という言葉がこのごろ、余計にすきです。
いつも誰かのおかげで、自分の気持ちをを知ることができるからです。
いつからか、「自分は─」という目線よりも、「いる自分」目線になってきて、ときに透明人間かのように周りを眺めては、ときに口を挟む自分もいます。結局すべて自分なところが、また面白い。
いつも主観さはついてくるものでもあるし、ついてきてもらわないと、自分が動けなくなる原因にもなります。
書いていて思うのは、「なりたい自分」と、「いまある自分」の揺れ動く狭間の心情を、綴っていくこと。プラス、そのために自分ができることとして考えついたことや、実際に起こした行動、その今後の修正点、などを書き記していくことが、ものすごく自身の為になってきた気がしています。
「〜している自分」の違う視点から見ていくことは、“本を読んでいるときに、考え方・見方が変わる”のと同じように、「体験をどう解釈していくか」だけで、日々の行動やモチベーションも変わってきたりするのです。
「考えついたことを少しひねってみて、自分が想定できる範囲内から徐々に変化をもたらしていくこと」が、少しずつ自分の中の枠を広げ、行動をアップデートできていく。
いつの間にか自分の気持ちから環境も変化させていける。
「みている景色」を変えてみたことで、「おこす行動」にも芽が出ていく感じがします。
体は、「対応できないことには症状がでる」し、「持続して対応できそうなことには、少しづつ適応ができていく」ものです。
たとえば、「読書」は身に入りやすい方法のひとつです。けれども、丸ごと吸収するようにしてしまうと、自分を見失いやすくなるのも要注意したい点です。
その「捉え方」も、「ほんとうに著者の伝えたかったことなのか?」も定かでないし、「解釈の仕方」によって、「どう捉えてくのか」も変わってくものだったりします。
読書からの情報を、自分の知恵として、一旦何かを得た気になれることは一歩前進だと思っています。大事なのは、いつも、「そんな気がする」くらいに留めておくことが大事かもしれません。
わたし自身、気に入った本からヘンに何度もじっくり熟読してしまう理由があります。
同じ本からでも、「あれ?いまはここが大切に思える」という部分が違ったり、気持ちは常に安定していないように感じられるからです。
大切なのは、その都度同じような葛藤に遭遇したとき、上手にお付き合いする方法の解釈パターンを、たくさん見つけていくことではないかと思います。
そのためには、「誰かと意見を擦り合わせてみて、乳化させて、心を洗い流して解消させてく」ようなイメージで考えていきます。
最終的にいえば、本がなくても、自分の身の回りの中から改善点を見いだしてくのが一番ですが、それもなんだか味気ない気がしています。
「本を読む利点」は、「なかなか出会えなかったけど、出会いたかったような人を見つけやすい」ことでもあります。
Instagram、Twitter、などの、あらゆるSNSも探すために見つけやすい「道具」にもなります。出会えなかった縁も生まれることもある、そんな時代でもあります。
結局のところ、あらゆる「外で起きていること」から、自分なりに大切に感じた何かしらの「違和感や心地良さ」を「深堀りして考えてみて、自己見解に結びつけてみる」こと。
さらに、日常生活に目を向けてみて、取り入れてみるようにする行動を実践し続けること
。
それが、日々「生きるための向き合い」を学んでいけるような気がしています。
ローソンのカフェラテが抽選で当たりました。
試しに気まぐれでしてみたのですが、当たるものなのですね…!しかも、Mサイズです。たっぷり飲めました。
以前は、もらえることだけが嬉しかったのに、今はなんだか嬉しさと申し訳なさも込み上げてきますね。
おかげさまで、有難くいただきます。
みなさまもお試しあれ!
では、
みなさま、素敵な一日をお過ごしください。