コーヒーと暮らしを愉しむです。
今回訪れてくださった方、そして、いつも訪れてくださる読書の皆様、誠にありがとうございます。
今回は、「備忘録」として。
何を選択し、何をやめるか
周りからの評判、そして周りをみている自身からの評価、世の中の風潮──
私たちは、つねづね「しなければならない」に煩悩されなければなりません。これは、少なからず人間である限りつきまとう永遠のテーマなのでしょう。
なにが幸せなのか?
さまざまな責務や欲求に揺れ動かされ、ときどきものすごく嫌気がさしたり──この選択さえも、ときどき難解に感じたり。
けれども、この心配はほとんど役に立ちません。経験でもわかる限り、ストレスを生む考え自体へ思い悩み費やす時間はあまり意味がありませんでした。自身のなかで混雑させても状況は変わなかったのです。
やはり、いま現在の行動からなにかが変わることが多く、これも、ただの意識のもち方になってくるということ。
なにを幸せに感じているのか?
何をするのが充実した人生だと感じるのか?
この問いをもう一度整理してみることは、生き方を改めるために、たしかに役立ちます。
そのための手段として、わたしは記録を続けたり、周りを透明人間かのようにぼんやり見渡して自己対話してみながら、これまで外の景色を見渡してみながら──
そのように経験してきたことでわかる事は、あらゆる対象と比較してしまうことで、自分の存在価値を自分勝手に評価していたことからきているかもしれないということ。
そのような考えに耳を傾けてみて、勝手な先入観をもつ。自己分析フィルターに気をとられること。これは、何が幸せなのか?を見失いやすく、自身の意思決定を鈍らせることにもなる。
過去から未来へのアルバムを充実させるのか?
いま過ごしている時間に意義を感じるのか?
間接的な楽しみでも、
いま体験している直接的な楽しみでも、
ずっと滞在しているものはありません。
食べたものも食べ終えたらなくなってしまう。
それなら、食べられること自体に感謝し、食事を終えた方が、幸福を感じられる。
いつも、なにを大切に感じて生きてくのか?
で、大きく気持ちは左右していく。
考える事柄に対し、ひねりを加えた考え方をすることによって、人はまったく真新しい行動をとったり、意欲も湧いてくるものです。
自分の意思で穏やかな生活を愉しめる、一喜一憂しない暮らし方を。そして、お金で得られない自己経験は、有意義に感じられます。
客観的に事実として認識できることは、いつも存在はしなくて。
それなりに、よりよい人生を送るように考えて過ごしてみるしかないということ。
実際、あの人が言っていたからとか、そのような話を聞いたとしても、自分で実体験をしなければ、自分自身の心が揺れ動くことはなく。
どう揺れ動くかを自分自身で確認してみて、何が幸せで、何が必要に感じるのか?は、自分のものさしで測ってみなければわからないものです。
なので、いつもなにも参考程度にとどめておいて。
なにを考え、捉えて選んで生きてくのが有効なのか?は、自身で体感して決めてかなければわからないということを感じられます。
というように考えてみると、考えも、ごくシンプル化してきたようにも感じています。
最近は、あらゆるメディア、ファッション、食──というあらゆる欲ともだいぶおさらばしたくなり、まるで削ぎ落とされていったかのように洗いざらい消え去っていくようです。
こよなく愛するものとひたむきに向き合い、暮らすこと。好きなことへ熱中したのなら、その事を朝から晩まで、じーっとたのしんでいられる性格です。
そんな、ひそやかな場所で暮らすのがすきです。
といっても、つい最近までは、まだまだあっちいったりの状態でした。
けれども、「あ…これ一体、何のためになってる?」という事柄に目を向ける時間よりも、大切なことに目を向ける機会を増やすことに、ようやく気づけたようです。
やはりわたし自身、少し古風さや落ち着いた静かな暮らしが好きなようです。
今のところの、理想的なくらしといえば、大切な家族、親族、2,3人いる友人、簡素な食事、季節によって二、三着備わった衣類、そして、物事に励むための書物を読むことと、記録する書く活動、人の役に立てるような姿勢、あとは、よく寝ること──くらいしか、思い浮かびませんでした。
もっとシンプルに言ってみれば、
個人の心の平穏を保つ術を知り、あえてその領域を確保すること。
内なる成功にもなり幸福でもあり続けられ、かつ、誰かへ貢献できることがあれば、誠の救いと幸福になりそう。そして、よく寝て休むこと。に、なりそうです。
現代メディアとのお付き合い──
たしかに必要なときはあります。これも正直周りで見てくれている人に教えてもらえたりするので、わざわざ自分自身でみることはしていません。たまに、チラッとLINEニュースや、NOTEで見かけた政治的な部分は把握しながら身を引き締めておくようにはしております。あまりそこへフォーカスし、変に敏感にならないようにはしています。
やはり、平凡な日常にどう彩りを取り入れるかは、自分自身の考え方次第になってくるのかもしれません。
「マイルールの境界線」をつくることは、「生きる目線」で大切なことだと感じています。誰へも尊重しつつ、個人も尊重しつつ。