暮らしを愉しむ

日々、考えること、好きなこと、暮らしをつぶやく散文記録。読書、観賞、暮らし方など。

余生をたのしむために、どう生きるか?の備忘録。

こんにちは、コーヒーと暮らしを愉しむです。

今回訪れてくださった方、そして、いつも訪れてくださる読者の皆様、誠にありがとうございます。

 

 今回は、今後どう生きていきたいか?みたいな備忘録てして綴ってみようかと思います。

 

余生をたのしむために、どう生きるか?

 
今までの自分だったらそこまで考えてみなかったけど、物事が奥深い気持ちになっていく気がしています。今までの自分のあり方とこれからの自分のあり方が変容してきているようです。
 
これも、生きている瞬間はものすごい一瞬で、あらゆる考えごとをしても儚くも終わってしまうことなのだと、感じてきたからです。“生命も有限だからこそ、残すものは何も無いけれど短い瞬間を生きている限りなにをどう捉え、何を知り、過ごすか?”─得られる感情は無限大だからこそ、なぜそのような感情が働くのか?は無限大。だからこそ、どうせならあらゆる不思議を考えてみて生きてみたくなってきました。
 
幼い頃のわたしは、言葉一つ声からしぼり出すこともこわかったような人でした。自分の言ったことで、「なにか反感をかうんじゃないか」「気分を害すんじゃないか」と環境にただ揉まれているだけで、状況をどうこうしたらいいのか判断さえもつかず、心配ごとをただ自身のなかで大きくふくらませていた頃もありました。いま思えば、自身の身を守ろうとする一心だったのだと思います。
 
そして、徐々に自身の味方になっていれば自身の鈍った感覚に風が吹くことに気づいてからは、自身をケアする維持法を少しずつ掴んでいくように向き合えるようになってきました。個人で大切にしておけばいいことだと分け隔てた考えの元で過ごしていた気がします。
 
そして、いまは個性を大切にしつつも、なにかが存在してくれているからこそのために考えて生きていてくのだなと、自覚しつつあります。
 
自分の中に知らず知らずのうちにある「こうでなければいけない」という理想やこだわりの線引きがなくなってきて、日々のあらゆる物事を客観的に自分事にして考えて見ながら、感じたことを自身の捉え方にアップデートしていくこような感じがしています。これも「個人で」というしがらみが取れてきたのではないかと思うのです。
 
今後の余生は、自身で持っておきたい人生の心得として、新しい風が吹いてくる考えをしていきたいと思っています。意識の枠をどんどん外していってあらゆることを考えながらどうせなら生きてみたいと思うのです。
 
それは、小さなことから始まります。小さな積み重ねから自身の大きな変化に気づいたときがあれば、それが実感というものではないかと思うのです。達成感は、自身のためよりも誰かのためにもなることが、はるかに幸福感を得られます。これもよく考えてみれば、家族愛だとか、身近な誰かのためへと貢献する気持ち、生きてる“とき”を、共有できることが幸せになるのだと感じるからです。
 
世の中は、便利なもので溢れています。だからこそ、「ここは私は身を引いておきます」みたいな自身の生活感を鈍らせるものは、むやみに手出ししないようによく考慮するようにもなりました。
 
あくまでもあらゆる意識の集合体のなかにいる一人の考えとして、自分の中での情報の受け取り方も、むやみに吸収しなくなってきた。
 
以前だと、便利だからこそ故に流されてしまいそうになることも多々ありましたが、最低限行っている日常のなかにこそ、自身の発見はあるのだということを知ってきました。
 
「ただの娯楽なのか?」それとも、「自身の成長のためになる生活の質を上げてくれるものなのか?」ということの分け隔てはいまは、ありません。どうせなら奥深く考えられる体験をしたいと思うことだけになってきた気がします。
 
世界をみるように読書をすることも、私には最高の生きるのを楽しむ一つの大きな方法です。

 

 

そして、どこかで出会う人、話した人、訪れた先…など、何気なく起こる毎日から発見の連続になることを、改めて感じています。

 

 

原始時代みたいな生活を求めているわけでもありませんが、できるだけ素朴な生活のなかに大切にしたい理由は隠れているのだと思っています。脳を働かせられる気がするからでしょうか。いま以上の生活を求めようとしなくても、いまの自分の日常のなかにある真の意味での生活の質を高めてくれる発見は連続にあります。
 
そして、日々のなかで探していくから疑問点や改善点が見つかります。いまできることから手当り次第探っていくことが、「今後どうするか?」のカギになってくれるのです。なので、毎日気になることを自ら探して考えたいことを見つけるようになりました。心はすぐにビビッとお知らせしてくれるように、まず心から脳へ送られていく感覚をなんだか感じるのです。
 
子供たちも分からない言葉をなんとなくの意味を察するように、今後は《「言葉がどう使われ、どう役目を果たしているのか?」物事を感覚から察する力》が大切になってくると思っています。
 
いま一度見えるものから、きちんと見定めて判断していくことは実はカンタンなのかもしれません。けれども、未知の領域のことは難しい。この判断基準が難解なものとさせていることにもなりそうですが、確かなことは、この世の衰えの危機にあるということ。
 
なので、いま自身が広い視点で見て考えていくことはできるからこそ、自身のありたい方と全体がなるべくあってほしい方へと心がけて日々を過ごしていきたいと思っています。
 
何がうまくて、何が表現かも定まっていないからこそ、考えることは面白くなることで溢れかえっていると思えるけれど、見えないからこそ、考えたくなります。
言葉の表現、価値観、生き方も真偽はないものの、良い意味で表現されるものであって欲しいと願うゆえに、よい機会として扱われていることだからこその良しを感じとれる気がします。
 
だからこそ、抱いてるものは万国共通なのでは?とも思うのです。
 
では、個人としての願望は?
 
…といえば、私のなかにできるモヤモを書き直すように自身なりの良い考えへと結びつけるまでを最終とするからこそ得た気分になれます。あらゆる場面で起きたクエスチョンマークが浮かんでくる感情は、考え直すために誰かが示してくれているからこそのおかげで参考を得られることに感謝しつつ。そもそも個々の分離化も生まれるのも自然かもしれないという自覚も必要。
 
けれども、誰もが生きる記憶を作っていくために求める豊かさの根源は似ているはず。だからこそ互いに理解し合える問題のために、個人のアイデンティティを使い、相互に豊かな生を紡いでく世であってほしいと願い、行いを改めていきたいと思っています。