暮らしを愉しむ

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なんとなく生きていたことを自覚しつつあるこの頃の記録 -脳の意識を変え、心身ともに柔軟に-暮らしの手帖vol.2

 

おはようございます。

コーヒーと暮らしを愉しむ です。

 そして、たまたま訪れてくだった方、いつも訪れてくださる読者のみなさま、誠にありがとうございます。

 

このブログは、

らしく生きるための考えを豊かにするために、

そして、日々を愉しむための記録として… 

暮らしの大切な気づきとエピソードを綴っていきます。

 

 

今回は、暮らしの手帖vol.2として、『五感』編です。

 

 


 

なんとなく生きていたことを自覚しつつあるこの頃の記録 -脳の意識を変え、心身ともに柔軟に-

 

この頃、脳も体もまったく同じように繋がっているのだなあと実感しつつあります。

心身ともに素直になると、痛みにも敏感に反応しつつあります。

痛いなら、良くしなきゃと、気づいたのなら治そうとする考え方へ改善する力が働いてきたように思うのです。

 

ストレッチするように、凝り固まった考え方の箇所に気づき、徐々にほぐして、和らげて、流すという丁寧な作業によって改善されていきます

 

 

私は幼い頃からここ2年前くらいまで、心がなぜ痛むのか、その原因がよく理解できずにいました。

ときには、すぐに考えが神経を伝い、偏頭痛になる、そんな体調の異変が起こることにさえ、当たり前に日常を耐えるだけだと思っていたのです。けれども、これも方向性は間違ってなかったのかなと思います。耐えながらも生きる至福感を噛み締めて生きることは大切だったと思うのです。

 

いま考えてみると、脳が意識する考え方を勘違いていたような感覚がします。働きがイマイチ鈍く、心の状態も優れず、心に生ぬるい鈍痛が常にあるぼんやりと生きている感覚でした。

 

もちろん、今も特別なことはできずに生きているわけなのですが他人ごとではなく、自分ごととして、自身が本能的に感知したことと認識し生きているということの自覚を持ってきたからなのか、心は満たされている。自身と向き合いながら、生き方を探るようになってきたので、そこまで頭の中が混乱することなく、平常心を保って過ごせているような気がしています。

 

 

そして、他人との変にこだわった境界線を持つことや生きにくさも生じるということ。

 

個人だけの時間を確保することの重要性は、感情的な知性の向上をさせることであり、過剰に個性だけを大切に扱うことに努めようとすると、個人と外側との境界線を自身で作ることにもなり、違和感や警戒心もあえて強めて協調性を失いやすくなってしまうことになる

 

 

相手からも、反発心を感じ取れば、危機感を感じ、警戒心も抱きやすい。これは、本能的に攻撃されないためにと、感知しているような気もしていて。

あえて遠ざけるのも本能的に身を守るためや、生命力を失うことにもなりかねないので、重要なことになりえるとも思えるのです。なので、よく、価値観の合う人と仲良くしたくなる心理もここにあるように思える。

 

相手に必ずしも非があるとは限りませんし、

時と場合によって、誤解も生まれる時は否めないのではないかと思います。

 

ですが、やはりなんだか神経が尖ってしまうような関係は、心地よくはないものです。

 

よく、攻撃性の高い動物は、自分の身を守ると言いますが、たしかに、心配に遭遇したとき、自身のなかのナイーブな部分という領域に入られるのは、頑なにイヤなものです。

よく考えてみれば、繊細であり、大切な部分をえぐられるかのようにも思う場面だとしたら、誰もが攻撃されるんじゃないかと思い、身構え、反発したくなる。

これが、ごく自然な反応なんじゃないか、とも思います。

 

自分のお気に入りの家に、誰でも入ってきて欲しいわけじゃないし、別に誰でも大歓迎なわけがないのと同じで。自身を気に入って、好意的に来てくれる人を喜んで迎え入れたくなるのは、自然な反応なのかもしれません。

 

歓迎して快く迎え入れはできないよ、と受け入れ態勢ができなければ、

無理して変えようとしなくてもいい。

誰でも、気遣える領域はあるのだから

無理して変わろうとする負担がかかる

気が散る難しさを感じる関係は、

察する限界は、あるのです。

 

 

お互いのために、自身の健やかに生きるための余力を守るために、欲求が多ければ、多いほど、かえって負担にもなりかねないということ。

 

程よいバランスで、

その都度、臨機応変に、調整していくという姿勢で。

 

だからこそ、人と人との繋がりとしてこだわるべきところは、生きるための理解、創造力、観察力、共感力、誠実さ、感性、知恵、希望を持ち、価値観をすり合わせるように努め、互いに生を紡いでいくために必要なのは、善良な関係。

 

欲は、好奇心から生まれたものであり、満たされるものでもあるけれど、どこまで費やすのか?その手段で、幸福度は左右される気がする。

 

モノで満たされるよりも、はるかに大きい真の心の充実は、心を通わせる人と人同士の繋がり。それぞれに長けた部分で補い合って生きていく共存。要らない分から余裕が生まれる供給。外と照らし合わせて自身の内側に宿る分だけから、個性は生まれる。

 

心の充実は、どこまで広げてくか?

あるもので工夫を凝らし、自身の手に負える範囲内にあるという安心の感覚にまでで、とどめておくこと。自身にあるもの、持っているものを、管理できる、分け与えることができる範囲内から至福感は生まれる

そして、身の回りとの関わりは、あらゆる情報から見極めていかなければならない。そして、ともに攻略し合う仲間との縁を強めていくから、幸福度も豊かになってく気がするのです。

 

より良い世界への方向性に導くことができればと願いたくなるのですが、最終的に待っているのはわからないよな、と思いつつ。

 

日々囲まれて暮らしていくなかにも、必ず、違和感は生じてきます。周りにいる人へきちんと感謝を持ち、敬う心で。そして、シンプルに。だからこそ、心地よい関係を保てるように、日々自身を管理し、循環し、アップデートの調整も大切だと思う、この頃です。

 

 

 

 

みなさま、良い一日をお過ごしください🍀