コーヒーと暮らしを愉しむ

珈琲、読書は、心地良さと豊かさを知る時間。そのほか日々を愉しむモノ、瞬間、暮らしから学ぶ大切にしたいエピソードを綴ります。

【暮らしの手帖】日々自分を元気づける言葉がけから“幸”あり

こんにちは。

暮らしと珈琲を愉しむ です。

このブログは、主に好きな珈琲、本をメインに、そのほか暮らしのちょっとした大切な気づきとそのエピソードを綴っていきます。

 

そして、たまたま訪れてくだった方、いつも訪れてくださる読者のみなさま、誠にありがとうございます。

 

今回も、『備忘録』編です。

 

1.孤独な時間に楽しく集中することにします

 

今日は、朝日が最高に差してきて気分もすごくいい始まり。お気に入りの読書スペースで珈琲をすすりながら、買ってきた肉まんを頬張りながら……ここ数年揺るがない一番好きな本を読む。

 

毎日の習慣は、手を合わせて感謝すること。
手が合わさった体温なのか、手の静脈のかすかな動きなのか、手がジンジンと暖かくなった日。

……そんな、“いつもより気楽に”のオフの日は必要です。ああ、幸せだ。

 

最近ふと思うことは、合間でメモをすることが日課になりました。
こんなにも感慨深くなるのだなあと、“ありがたい気持ちに煩悩される”日々です。

 

一人時間を充実させるように過ごすと、あらゆる多少の葛藤も、その時は、すべて手放した気分になります。

“うん、また、不快感という葛藤がやってきたとしても大丈夫”と。

そんな、余裕が出てくるような気持ちになるのです。この時間はきっと、知らず知らず負担になっている重荷という考えを軽くし、気楽に構えることができるようになる時間になってくれているようです。

いつも無理は禁物。
自身が気分が良くなることを考え、行うことで、悪い考えをなるべく減らし、気にならなくする努力を改めていくことが、日々乗り越える力になってくようです。

2.今したいことが終わってから
その先のことはすることにします

昨日、いつものようにブログを書いていたときのこと。
今週の書くお題として、
「春になったらなにしたい?」との表示がされていました。

“う〜ん、春になったらしてみたいこと?”

……少し考えましたが、正直思いつかなかったんです。春にならなければしてみたいことは分からないし、想像もできませんでした。
春とは?の想像は、なんとなくできたとしても、自分が春に何をしているか?なんて、予想もつきません。
その質問は、私にとって、この先のことも想像しにくいのと同じように思えたのです。

 

このとき、思いました。
うん、やっぱり先のことは、あまり考えないようにしよう”と。この先やりたいことは、今でもあれこれ思い浮かんでくるのだから。そのまた、その先のことは、考えていられない。あれこれ楽しいことは、“今から見つけよう”と。


いま、目の前のことでやりたいことを、懸命に充実させて過ごすから、その先が見えてくる気がします。

 

どうやら、自分のなかで“楽しい”をみつけると、充実が満足になり、感謝したくなります。いい意味で、心が忙しくなるようです。

 

“やりたいことは、やりたいことから始めてみよう“。
まずは、“これが良さそう”というものから始めてみることにすると、そこからまた、新しい考えが浮かんでくる……その連鎖が生まれます。

だからこそ、改めて、
……いま、何がしたい?
そう、自身に唱えることにしました。

“やりたいこと煩悩”が生まれてくる、この頃。


3.日々自分を元気づける一番の方法は、慰めの言葉

よく、誰かに元気づけてもらう一言で、元気づけられたようにモチベーションが上がったり、「やっぱり頑張ってこう」と前向きに思えることって、ありませんか?

そんな“あらゆる場面から大切に残しておきたいものは、いつも裏切らないような、背中を押してくれるような言葉たち”です。

私の場合、誰かとの会話、本からとか、偶然見かけたメディアからとか……心地よく耳に残り、心がジーンと温まるような感覚がするとき、「あ、癒されたんだなあ」「励まされたんだなあ」と、思える瞬間になります。その言葉に、妙に癒されたり、救われるのです。

そして誰もが、日常のなかで、“独自の言葉から発する”という情報発信をしているのです。

言葉を大切に使いさえすれば、
“日々をもっと、より良く過ごそう”

そんな力が湧いてくるようになります。

“果たして、どんな言葉を自身へと誰かへと、投げかけているのだろう?”

私自身も、もう一度、そんな自覚を持って会話をしていく必要があるみたいです。


私自身、自分に元気づける言葉のかけ方をすることで、随分と変化が訪れてきたように思います。

この頃、日常に対して、ひとりごとをするように励ましの言葉をかけるようになりました。
対策案混じりのエールを自分に送ってみるような日もあれば、自己整理整頓するように周りの景色をボーッと眺めて考えながら……背中を押しているような日もあります。

わかりやすいときは、嬉しいときには、声を出してつぶやいてしまいます。感銘を受けたときは、黙ってはいられません。
そして、“ひそやかに心のなかで唱えていたいことは、まだじっくり考えて味わいたいことなのだなあ”と思ったりするのです。

もはや、ひとりごとを呟いてるのか、誰かと話しているのか分からなくなる……そんな日常は、自身の気持ち、誰かの気持ちをくみ取ることに繋がっていくようです。


だからこそ、何かにつらくなるとき、
“受け取らないほうがおかしい”というアドバイスのような見せかけの批判……言葉の圧力を感じてしまいます。

それは、誰が、言ったのか?
それとも、実は、自分が言っているだけなのか?

結局、どちらなのかは、よく分かりません。ですが、耳を塞ぎたなるようなプレッシャーを投げかけていることだけは、わかるのです。
“こうだから、こうである……”と、考え方をすでに結論づけてしまったのなら、あらゆる事へも改善の余地がなくなってしまいます。まるで、すべてに終わりを迎えてしまうような気持ちになってしまうのです。

だからこそ、自分へも、誰かへも……
「こうであってほしい」というコントロールする気持ちを押し付けるという、お節介は、すべてしんどくなるから。誰も完璧ではないのだから。
いつもあるなかに、“救い”という“優しさ”を込めなければならないのだと。

“愛”とは、もしかしたら、“優しさ”ではないかと思ったりします。
未だに“”については、よく分かりません。
けれども、なんとなく思うのは、
思いやり、共感、理解する、受け入れる……
みたいな、ことではないかと。

そんな気持ちを持つ意思があれば、
誰かにも自分にも余計なことは言わぬように気をつけようとする“優しさ”という“配慮心”を、常に宿せるような気がするのです。