とある暮らしの散文日記

珈琲、読書、観賞など。日々感じたこと、考えたこと。好きなこと、暮らしをつぶやく散文記録。健やかで丁寧な暮らしを求めて。

生きやすくなってくために「考える」暮らし

 

こんにちは。マコです。

いつも訪れてくださる方、読者の皆様、ありがとうございます。

 

ここらでまた備忘録を。

 

 

 

時に考えすぎるというか、思考をあれこれ味わいすぎてしんどくなる時があります。

日々のあらゆることが脳内にいっぺんに押し寄せてくるような、頭をかち割ってしまいたくなるときさえあります。「どうしてここまで考えてしまうのだろう?」なんて、悲観的になってしまう時もあったり。ときには、自分の考えと人の気持ちを行き来して、あれこれ考えすぎちゃって、結局どうしたらいいんだろ?状態になるときもあります。

 

 

そんな「考えるすぎる」状態は、ゴールになかなかたどり着けなくて焦っちゃう迷路みたいに、少し途方に暮れるような感覚になって、不安になりやすいとき。そんなときに、「あ、なんだか疲れてるな」「元気がでにくいな」とエネルギー切れに気づきます。

 

ですが、最近はなんだか、「これらの感情をすべて含めてもっと大事に味わいたい」って思うようにもなりました。「どうするべきかは頭ではなんとなく分かってるけど、あえて自ら頭をつっこんで、もう一通り納得いくまでいろんな感情を味わって考えみたい」って思うんです。

 

 

例えば、

 

・糖分がとりたくなる、とか、濃厚な物が食べたくなる、とき。(わたしの場合、疲れたあとのコーヒー、紅茶一杯が美味しく感じるとき)

 

・とある景色、モノ、場所、などに対して、自分だけの経験、記憶という視点を通して、何らかの感情が込み上げてくるとき。

 

・子育てで、どうしても四六時中さけられない、自由の効かないような精神がピンと張ってるような感覚にもなるけれど、やっぱり我が子の成長を見守るときのなんとも言えないほどの幸せを感じるとき。

 

もそうです。

 

達成感や大変な思いをしたときに得られる幸福感が高いです。

 

思い返す場面が多いほど、生きているなかで知恵を得ていけるような気がしています。

感慨深く楽しむのを味わったうえで、どうしていきたいか?を考えるから、肌身で感じて得られることがあるんだよなあ、と。

 

何となく生きてる感じがすると、ときに何だか無力感におそわれ、必死に頭を使うようになってくばかりで、しんどくもなります。これは、ちょっとしたセンチメンタルになったり、ノイローゼ状態に陥りやすいので要注意です。頭を抱える、になるとしんどいですから。

 

あくまで、「考える」も、あらゆることに対して気にしないでいいように考えて生きていけるための対処法として。あらゆることに、どう考えていくのがいいだろう?とあれこれ考えてきたからこそ、「こんなこともあるよね」なんて、物事に不思議さや違和感や抵抗感が減って、生きやすくなってくような気がするんです。

 

 

「いま、これを食べると元気になる」とか、「これをすると元気になれる」みたいな、生きるために必要な栄養を補給するように。あらゆる体験から考えた糧という思考材料を、日々の大切なルーティンや現状打開策として身につくパワー源になる気がします。

 

 

どんな毎日でも、何かしら思い、過ごしているわけであって、人生のマイストーリーが続いてくもの。生きてることって大変だなあと思うからこそ、生きようとしてる感が強まってくる気さえしますから。

 

 

なので、せっかく生きてるのなら色んな感情味わいたいじゃない、って思うんです。

 

 

今あることを噛み締めながらも、こだわらず、ためこまず、くよくよしないように。楽しくなる方へ沿って生きてくようにして。

楽しめるように生きてけるような意味を持たせるからこそ、人生って感慨深く生きてけるようになってくような気がしています。