純粋に楽しめているか?コーヒー時間からみえる、初心の気持ちに戻れる生き方
人生って、ホントに何も分からないことだらけです。分からないから不安になり、考え事もその時によって色々です。最近は、なんだか目先のことで頭がいっぱいモードになっていたことにハッと気づきました。(だからこそ、体調も崩しやすいと自覚し始めているこの頃……)
「楽しむ」ことを忘れずに、注入を注ぐことをいつも忘れないようにしてきたものの、自分がしている事に満足感が得られない、認めきれてないという否定的な気持ちがあるなぁ、と痛感しています。
最近は、「自分が試してみたいことを信じて、純粋に楽しんでみる」ことだけに意識を向けて。イヤなことではなく、「たのしい苦労をしてみる」ようにしています。……のですが、ヘンに深く考え込み過ぎちゃって、逆にテンションが下がってモチベーションが上がらなくなって、なかなか大変に追い込んじゃう時もあります。「あ、楽しくやりたい事だったのに、ヘンに先のことを計算して考えすぎちゃって疲れちゃってるな」と思ったんです。
「自分がしたくてしていることなのに、なぜか楽しみきれていない。楽しんでいる行為が自己満なのではないか?」なんていう疑念もたまに入ったり……。そんなときは、もう一度こう考えます。「好奇心が掻き立てられた時の気持ちはどんなだった?」と。
「楽しそうで始めてみたかったことなのに、自分がその行為を楽しまなきゃどうするんだい?」と。純粋に楽しむことだけを考ること。楽しむ行為に満足するでなく、その行為を楽しむ自分に満足しないと、そりゃあ面白くなるはずないよなぁ、と。
例えるなら、休息時間というご褒美タイムなのに、心配事などの雑念に懸念されて、ゆっくり休めない感じです。
例えば、私だとコーヒーを飲む、物書きの時間が幸せパーセンテージに大きく割り当てられているのですが、そんな「自分にとって、この時間のこの行為が好きなんだ」という愉しさをしっかり噛み締められないと、その行動をしても心から楽しめないような感覚に近い。自分を見失ってる感じです。「あれ?何のためにしてるんだっけ?」になってしまいます。もちろん、自分が好きなことで癒されたい時間にしたいはず。
まず、疲れちゃったら楽しみたくても楽しめない。少し意識がそれてたんだなぁ、とナイーブな部分を発見できたりするこの頃です。
文章と写真で残すことが大切な記録に
コーヒーの専門的な知識を自然と知っていくことで、実用できるのが嬉しいのはもちろんですが、いちばんは、淹れる時間が重要なのではなく、美味しく飲めて、一息つけ、自分の感覚を取り戻す発見ができるのが目的。趣味でもありつつ、それと共に人生で大切なことを思い出させてくれることが多いコーヒータイム。ただ、純粋にコーヒーが好きで、飲む時間が好きで。この楽しむ感覚は、何かに悩んだ時にずっと役立ってくれるいい機会になってきています。
「家ではコーヒーさえ飲むことができたら満足だ」と思っていて、カフェで好きな雰囲気やカップを楽しめたらいいなんて思っていたけれど。最近は、お気に入りのコーヒー器具、カップだと、より美味しく、喜びも増えて、どんどん自分の趣向も分かるような気がするこの頃です。
仕事の合間にコーヒーを飲んで、趣味で道具を買うようにもなって。そのときを写真で残すのが日課になってきたけれど、そのときに考えた余暇が、考え深い一日の記録として残りやすい。1日3杯のコーヒーに休息としてだけじゃなく、いろんな意味で助けられてるなぁと感じる。
確かに、”コーヒーブレイク”って名の通り、絶対に行わないといけない営みの間に行う小休憩。そのときがないと、ゆとりって生まれないもんなぁ〜と大切さをしみじみ痛感するこの頃。
とにかく、「楽しい」を表現するから伝わるものがあると思っています。いや、自分が楽しいだけかもしれませんが(笑)文章だけじゃなく、写真も一緒に記録していくことの楽しさも発見しつつある。
自分の感覚、人生の余暇を見つめるいい機会にもなる。純粋に楽しいことを忘れずに。これからも過ごしていきたいと思っています。