以前の記事でも書きましたが、私は超内向的人間だと思っています。……が、「内向的」というのを自分の内側にこもっていると、一言では片付けられないことが分かってきたような気がします。
内向的を感じやすい時をおおまかに話してみると、
・自分の家で過ごすときが、1番心地いいし、退屈しない。そして、何よりも楽しく、幸せを噛み締める時間がほとんどを締めている。
・半年に1回友人と話せば、満足する。(それも、半日で十分満たされる。それ以上いくと、ちょっと疲れる…)
・落ち込んだ時は、ただ、ただ、1人でじーっと内観したい。
(熟考する時間が、一番の栄養剤になって、じわじわ元気が戻ってくる。)
・面白い話のときは、無理して聞いてるわけじゃなくて、わりとずーっと話を聞くのが好きだったりする。(グチや悪口、自慢話、自分語りが多い人は、ちょっとストレスを受けてしまい、…頭が痛くなるときもある、とにかく体がどっと疲れる。)
・ひとりでで外出。ひとりカフェが好きだ。(けれど、さすがにたまに、誰かと飲みたくなる。あ、1対1で。)
……などなど。もっとあるけれど、この辺にしときます!
「あまり話さない人」「インドアな人」というワケではなく、基本的に「一人でいるのが心地よく、自然体で居られて心底ラクに感じる」だけのことのような気もするのです。
…若干疑い深いが、人見知りというわけでもない。ただ、「自分を表現する範囲内が、手に届く場所でいいな」なんて、思ったりするんですよね。
ただ一言で、「外交的」「内向的」と分けてしまうことも難しい。「表現できる、できないい」ことではなく、ただの生まれ持った性格のことだけかもしれない気がしています。
ただ、「内向的」だって、時と場合によって、カチッとスイッチを入れたかのように、社交的に振る舞うこともできる。……しかし、その時間が長いほど、ダメージも受けやすかったりします。
ある日突然、自分の中で溜まっていったものが、ブァーっと溢れ出してしまう時もあります。それが結果的に、正常地点に戻してくれるのだけれど、それを保つことが重要になってくることは、もう…頭の中でようやく分かってきました。
大事なのは、「自分の中での切り替えかた」をうまく、掴んで、色んなパターンを学んで、おさえていく、切替スイッチをなるべくスムーズに押せるようになることだと。
誰もが「対処法」は違うから
私の場合、好奇心は物心ついた時から、人一倍旺盛だったような気がする。常に、新しい…新しい発見をしたくてたまらない少女だったと思っています。ときには、それが傷みたいに、長続きしない、とか、ひとつの事を成し遂げられないように感じ、自尊心を低めていた時もありました。
……けれど、いま分かったのは、好奇心はいつも持ち続けられるように、常に見つけて、それに向かって行動すればいいんだ!ということ。
その、「内向的の人間」が持っている豊かな感受性、「敏感さ」をうまく活用すれば、自分だけのとびっきりの発見、人生の活かし方、幸せを噛み締める暮らし方が見つかっていくように、私自身が、今まさに、感じている最中だったりします。
それが、一人一人違う、性格から生まれる、「好み」という個人的趣向の判断の元に、適した環境で、時と場合によってうまく切り抜けて暮らしていく術が大前提になってくると思ってしまうのです。
人の感情はそれぞれ違うから。
人の本心は見えないものだ。
自分の心だけは、もっと注意深く見えあげる必要がある。
誰かの名言みたいですが、私が思った事です。(笑)
そうなふうに、いまは思っています。
おうち時間は有意義な時間
内向的で繊細なタイプの私は、家でただ1人で黙々と仕事したり、家事したり、誰も気にせず気ままに過ごす時間がたまらなくすきでして。
- 何よりも至福の時間だと思っています。

よく考えたら、最近は自宅でこもってばかりの仕事で、全く運動もなし(週末のみ子供たちと動く)。昼間は仕事したくてご飯抜きにしていたり、深夜超えるまで仕事の事を考えて、夜更かししたり……。
個人で仕事を始めて5年程経つのですが、体調を崩し、仕事ができないことになることは、あまりありませんでした。よく考えたら、「規則正しい生活を心がけていたよなぁ」と。今になって、ここがホントに大事だったことに気づきました。
そりゃあ、育児もあるし、家事もあるし、考えることも多いわで、知らず知らずにキャパオーバーになってたんだなと……。
最近は、頭が疲れると言うよりも、体が疲れていたような気がします。以前の私だと、不安なこと考えすぎてイヤになって、勝手にストレス溜めて体調不良になることが多かったのですが、最近は「心の面」では、だいぶ軌道修正ができるようになってきました。
コンディションはいつも整えるように努めることが大切だということ。「ここらへんで疲れがでないようにやめておく」こと。「やる気スイッチ」が常に張り詰めた状態だと、常にゆとりがない。自分だけの心と相談し、スイッチのオンとオフを使い分けておく必要があるのです。
「表現したいこと」は、自分にしか感じられないこと、「喜び」があるということです。あくまでもそこにフォーカスし、努めていくように心がけています。すると、どんどん不思議と自分の中でブレーキをかけていた「こうあったらいいなぁ」という遠慮していた部分が、じんわりとゆっくり溶けだし、緩んで溢れてきました。
ヘンに自分自身にジャッジをしなくなり、やりたい事をやっている自分に対して、にんまり優しく微笑むように見守るような視線で、「よく過ごしてるようだね」と喜ばしく思え、「やりたいこと」に背中を押せる自分がでてきました。
いつも「やりたい事」へ何のためになっているのかさえも分からなかったけれど、答えはシンプルでした。ただ、自分自身にとって最高の幸せならそれでいいじゃないか。そして、それをいちばん望んでいたことに気づいています。
期待に胸を膨らましたことにストップをかけようとして、落胆する後悔が残るよりも、やってみて少し苦い経験になったりすることへの、甘酸っぱい達成感に苛まれたほうが、実は心がスッキリしているものです。
そんなふうに、少しずつ「やりたいことができる体勢」を身につけていくことで、「できる」に変わり、することに対しても自分自身の達成感との向き合いにもなってきました。
そして、「ときにやることに対してわけがわからなくなってきたり、目的を見失いそうになったりするけれど、迷子になったって大丈夫。あ、わたしはこの時、この瞬間が幸せなんだ、好きなんだ」。そう実感するような答え合わせができるときが必ずやってくるものです。そこに向けて、もう一度、軌道修正するように気持ちを向けていくことができようになってきました。